私信っつーか

印象付けというのはその話の製作者の「このキャラクターはこういう奴なんですよー」という叫びだが、そんなものは他の参加者に面と向かって言えばいいではないか。
他の参加者に対する印象付けなど、シナリオが始まる前の段階で済ませてしまえばいい


んー。それは実に正論であって激しく的外れであると僕は思うわけなのですが。


リレーって、内輪で楽しんでるだけじゃないんですよ。
何にも知らないプレイヤーも視野に入れておかないといけないんですよ。
つか、SUWにしろSA-DA-MEにしろXVにしろ、いわゆる「自キャラの印象付け」ってのは、
参加者っつーか製作者の中である程度行われていますが、あくまでもそれは
参加者の中でのみ行われているのであって、外には漏れていません。ええ。
予備知識ゼロのプレイヤーにしてみれば、生い立ちなどの外的イメージがなければ
内面語られたところでわけわかんねーよっつー話になるわけで。
添付テキストなんか読むのは暇人と関係者と物好きだけですよ。
そりゃ、1Eve内でそのキャラの歩んできた人生とか延々と語られてもうざいっつーのは分かるんですが
仮にそれすべて最初からなかったとしたら、もっと印象悪くなる気がするですよ。
正しくキャラをプレイヤーに理解してもらったうえで、ストーリー内で内面描写をしていけばいい。
それこそ、キャラの外面は先に誰か別の人に描写してもらって、
持ちキャラの内面描写は担当話で、というパターンになっていくわけですが、
自分はこれが一番効率がいいと思います。


そのために月に1度や2度、リレーメンバー内で話し合う場所を作ってみたりするといい
とのことだけれども、そのくらいのことはやっていると思うのですよ。
SUWは初期のころはそれこそ丸投げだったけれども、後半は内容、キャラの動きなどに
きちんと討議が入ったりしています。
……いや、マジで。
SA-DA-MEに関しても、担当者が積極的に声をかけてキャラの動きを確認したりしています。
XVにいたってはほぼ毎日熱い議論が繰り広げられています。
お互いのキャラの理解なんてのは、言われてするもんじゃないってことくらい、みんな分かってるんですよ。
お互いのキャラを理解して、意見をぶつけ合って、その上でシナリオを書く。
ごく当然のことだと思うのですよ。
それでも、完璧とはいかない。ましてや「話の流れから担当者が特定できなくなる」なんてことはない。なぜか。


それは、製作しているのがそれぞれ異なった人間だからですよ。
15人が同じことをして、同じ結果になるとは限らない。創作というジャンルなら、ありえないことですよ。
それに、それでは「真の意味でのリレー」の意味がない。
勘違いしてもらっては困るのだけれど、リレーって「共同制作物」とは限らないのですよ。
そりゃ広いくくりで見れば共同制作物ですが、参加者は「〜製作委員会」の構成員である以前に、
1人のシナリオライターなのですよ。
チームで足並みをそろえて作るのもそりゃ素敵ですよ。ええ。実にすばらしい。
でも、参加者が己の個性を全開にし、それぞれのチカラを最大限に発揮し、ぶつけあう。
それも素敵じゃないかな?
「超退魔大戦」というリレーシナリオは、ジャンルこそリレーシナリオだけど、実際は
複数のシナリオライターが自分のシナリオを持ち寄ったオムニバスであります。
分かる人なら、音ゲーが感覚的に近いかな。
シナリオライターはコンポーザーに置換できる。シナリオは楽曲に置換できる。
「DDシリーズ」の泉陸奥彦と「Dragon Blade」の中村康三は「かっこいいギター」という共通点があるけど、似て非なるものだ。むしろぜんぜん違う。
TERRAとBeForUは同じコンポーザーが楽曲提供してるけど、路線がまったく違う。
……んー、ちょっと脱線した。
で、この超退魔大戦においても、お互いのキャラ把握なんつー「初歩の初歩」は、当然こなされています。
でも、その上で自分の個性を出す。自分の路線を突っ走る。みんな。
もちろん、たまに脈絡のない展開に陥ることもあります。たまに口調おかしくなってるキャラとか見ます。
最初はそれが気に入らなかったけれど、今となってはそれはこのシナリオのウリのひとつだと思えるようになった。
だって、個性がなくなったら、自分が書く意味がないから。
だって、個性が埋没したら、そんなのただの部品にしかならないから。


スタンドプレーでは担当者の作風というのが濃く出てしまうが、チームプレーではそれも薄まる
って、言うじゃない……?
それのなにがいけないんだと、声を大にして言いたいのですよ。
中村康三はDDシリーズを作れるかもしれない。でもそれは「真のDDシリーズ」じゃない。
自分の作風ってのは、自分のアイデンティティなんですよ。
それがいかに大事かってのは、シナリオライターであれば分かることだと思うんです。
チームプレーで作風打ち消したら、そもそもリレーにする意味がないんですよ。
そりゃストーリー重視のリレーは足並みそろえるの大事です。ええ。それは間違いない。認めますよ。
でも、「話の流れから担当者が特定できなくなる」ってのはどうか。
そんな状態になってしまったら、自分が書いた意味って果たしてあるんだろうか?
自分でなくても、他の誰かでも、結果は同じだったんじゃないだろうか?
見劣りする話でもいいじゃないか。破綻しそうな展開でも、みんなが許せばいいじゃないか。
だって、そのEveは、「そのリレーに自分が参加した証」じゃないか。
だって、そのEveは、「そのリレーに自分という人間が存在した証」じゃないか。


みんな、自分にしか書けないものってのがあるんですよ。ええ。
それはキャラにおいても同じ。自分のキャラは、自分が一番丁寧に、かっこよく表現できるんです。
そのためには下地が必要な場合もある。そのキャラを「プレイするすべての人」に認識してもらうためには
下準備としてそのキャラの説明をする必要がある。
その段階で投げるというのなら、そもそもオリキャラオンリーリレーに向いていない。
そりゃまぁ、でしゃばり過ぎない程度にやらなきゃならないけどさ。
それを差し引いても、「自キャラ」ってのはそれだけの愛を注げる存在だろうし、それを許される存在だと思う。
テレビシリーズが共通した流れになっているのは、脚本家がキャラを作っているわけではないから。
ただでさえ仮面ライダーとか見てると、脚本家の個性って結構見えてくるもんなのに。


リレー参加者の結束を強めるってのは、大事だと思う。
でも、そのために自分を殺すのはお門違いも甚だしい。
リレーに参加した理由をもう一度思い出してほしい。駒になるためか? 部品になるためか? 拉致されて仕方なくか?
そのいずれでもないというのなら、今まで言ったことがちょっとくらいは分かってもらえると思います。